茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊
みことばの贈り物(3)2007年10月
教会は秋の様々な行事が続いています。もちろん基本は主日礼拝ですし、教会学校や聖書研究祈祷会は変わりなく営まれています。みことばが宣べ伝えられ、みことばに養われ、みことばを喜び証しすることが、私たちの教会生活ですね。
…しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では一切を損失と見ています。
(新約・フィリピの信徒への手紙3章7〜8節)
ここでパウロが“これらのこと”と言って、キリストに比べたら何の価値も無いと考えるようになったものは、何でしょうか?
この直前の聖書本文を見ると、パウロ自身の出生、家柄、教育・学歴、使命感・働きといったことが記されています(5〜6節)。彼が、ユダヤ教の伝統的な信仰や価値観に、高いプライドを持っていたことは明らかです。これらはパウロを支え、保護し、強くさせて来たのですね。それだけ彼は、有利だったのです。
そうした有利な生き方を、今や彼は、キリストのゆえに無意味だと言うのです。
これらのものをパウロは、ひと言で「肉」と言い表していますね。
この「肉」とは何でしょう?………「お肉」(食べ物)では、ありません。
「キリストを誇る生き方」と比べられるのが、「肉に頼る生き方」です(3節)。ですから、肉とは、キリストを誇ることのない、人間中心的な価値観を表すのです。その内には、神さまを否む人間の「罪の心」があります。(ご参考までに、聖書の世界では、神と異なる人間の本質を「肉」と言い表しています。ギリシャの古典哲学においては、人間について霊魂と対比されるのが肉(体)ですが。)
パウロが言いたいのは、「これまで自分が頼りとし、拠り所とし、自慢として、プライドにして来たすべてのことは、キリストを知った今となっては、まったく色あせ、取るに足らず、誇らしげに言うのも恥ずかしいような、つまらないことだ」と、いうことです。
要するに、キリストを知ったら、彼の全人生が大きく変わってしまったのです。その気持ちを彼は、「私の主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさ」と言い表しています。信仰の喜びを心を込めて伝えるフィリピの手紙の中でも、特に美しい一文です。
「現在の私は、もはやキリストを知る以前のパウロではない。私の明日は、輝かしく主イエス・キリストと共にある。何と素晴らしい神の恵みだろう!」と、パウロは主を賛美しているのです。
だから、イエス様を知る時間を他の取るに足らないことに費やしてしまったら大損だ、とパウロは言い切るのです。すごいですね。でも、分かりますね。
キリストを知るというのも、本を読み、知識として得た、ということではありません。聖書の世界では、知るとは、知識ではなく一致の関係を持つことです。特に、イエス様の十字架と復活を我がこととし、悔い改めて罪の赦しと救いの命が与えられたことを感謝する信仰こそ、キリストを知るということなのです。
ここに、今日生きる勇気が与えられ、明日へ向かう希望が導かれるのです。
このことが、いつでも私の拠り所であり、誇りとなるのです。このことが、今、聖書を読むと、文字を越えて、私の心に強く響いてくるのですね。
だから、聖書を読もう。感謝の思いで祈りをささげよう。あふれ出る喜びは、賛美で主にお応えしよう。パウロは足を使い、伝道して回りさえしたのです。
私たちが主日礼拝を大事にし、出来る限り聖書を学ぶ機会を作って、証の機会を持ち、共に支え合い、心を一にして教会を大切に用いていくのは、この伝道者パウロの姿に似ています。こうして、私もパウロにならって、すべての皆さまにイエス様を知って歩む素晴らしさをお伝えし、喜びをご一緒できることを、感謝しています。今月も、皆さまの上に、神さまの祝福が豊かにありますように!