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みことばの贈り物

茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊

みことばの贈り物(4)2007年11月

「秋の日はつるべ落とし」が、よく分かる毎日です。私の前任地・盛岡では、西にそびえる岩手山の初冠雪がとうに済み、冬到来への切り替えで忙しい頃です。皆さまに今月も主にある平安と祝福がありますように。

主の家に行こう、と人々が言ったとき、私はうれしかった…。
私は言おう、私のきょうだい、友のために。
 「あなたのうちに平和があるように。」
私は願おう、私たちの神、主の家のために。
 「あなたに幸いがあるように。」。

(旧約・詩編122編より)

 昔から都エルサレムは聖地と呼ばれ、信仰者たちの祈りと賛美の場としての神殿がありました。その神殿を目指し、巡礼の旅に上ろうとする人々が多かったのです。主の家とは礼拝をささげるエルサレム神殿です。

 この詩人は、他のすべての部族の人々がそこに上ってくる様子を見て、この神殿における礼拝こそ、あらゆる人々を一つにし、そこに他では見られない一致が生まれることに、気付くのでした。そうさせるのは、主なる神の憐れみです。これに応える人々の感謝があふれています。

 自分のため、友のため、主にある兄弟姉妹のため、そして、神殿と神ご自身のために、心を注ぎだして平和を願い、祝福を祈る姿があります。これは、礼拝に足を運び、礼拝からまた元の場に戻っていこうとする神を信じる一人の無名の巡礼者の姿です。何というおだやかさ、やすらぎでしょう。へりくだってさわやかで、気持ちがまっすぐ、かつ、広い。

 この人は、「エルサレム、主の家に行こう」と誘われてやって来たのでした。巡礼を「うれしい」と思う彼の姿が伝わってきます。その結果の平安です。やって来るまでの彼の心に、何かあったのかもしれません。

 来るきっかけがあったのです。「礼拝に行こう」という呼び掛けです。彼(女)の重い腰を上げさせ、沈んだ気持ちを引き立たせ、いっぱい悩みが詰まっていた心に清涼な風を吹き込み、これまでとは違う自分を求める旅に行ってみようと、この人の心と体とを動かした呼び掛けです。この呼び掛けに応えて、彼は主を礼拝する道に歩み出したのでした。

 旅に出るのは、決して容易ではなかったでしょう。旅支度はもちろん、道中の安全や、旅の宿、食事、健康、帰路など、慣れない未知への不安は、情報過多の現代では考えられないリスクだったことでしょう。

或る方が、長年住み慣れた我が家を離れていくときに、「この岩手山を今度いつ眺められるかねえ」と語られたのを、覚えています。

 大きな断絶がそこにあるのですね。同時に、この溝を越えることで変わる、新しい「自分」が、その先にあるのも確かです。

 実は、私たちは新しい自分になり得る選択の機会に出会っているのではないでしょうか。ただ、その機会を自覚せずやり過ごしていることが多いように思います。普段は不都合がなくとも、何かの際にはこの詩人のように「きっかけ」が手がかりとなり私が新しくなる道が開かれます。 奴隷オネシモの主人フィレモンは、逃亡したオネシモがパウロにより信仰を持ったことから、再び彼を迎え入れるとき、信仰者の愛をもって彼に兄弟として接する者へと変えられていきます。思いがけないきっかけを前にして、フィレモンは自分が変わる選択をすることになりました。そのとき「呼び掛け」をしたのが、パウロです(フィレモンへの手紙)。パウロもまた、主イエスの呼び掛けで人生が変わったのです(使徒9章)。

 一人の人がこのように変わるきっかけがある。それもイエス様によって変わるのです。そのきっかけに寄り添う、呼び掛ける声がある。そうして変えられた人は平安で、さらに執り成しの祈りをささげていく…。

 今もこの詩人のような人々がいます。礼拝に集い、救いを受けて喜び、主に変えられる経験の中で、主に感謝する交わりを広げていく人々です。

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