茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊
みことばの贈り物(6)2008年1月
新しい年です。新しさに期待があり、前向きになりますね。
「年が改まる」と言います。単に変わるだけでなく、正されるのです。まさにお正月。神様の前に姿勢を正して歩む皆さまの日々が、神様と共にありますように、お祈りしています。
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命(いのち)の言(ことば)について。 ― この命は現れました。御父と共にあった私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見てあなた方に証し、伝えるのです。
(新約・ヨハネの手紙一 1章1〜2節)
クリスマスの降誕のメッセージは人々の耳に届きやすいですが、続けてキリストについて、また、神様について聞く人々は少なくなりがちです。世にあって揺れ動く私たちが、永遠の真理であるキリストを聞き続けることに、意味があるのですが。
かつて戦国時代の日本にやって来た宣教師たちが気付いたことは、当時の人々、特に為政者が「天地万物の創造主」を知らないし、その存在を考えてみたこともなかった、ということでした。しかし、宣教は、当時都も地方も戦乱に終始し、勝敗を競って目まぐるしく入れ変わる武将に振り回される人々の心をとらえ、目に見えないけれど人間を越え、永遠のたましいを造り愛して下さるお方へと、心を開かせていくのでした。布教にあたった一人の宣教師の言葉です。
「人の目に見えるのは、すべて限りのあるもの。限りが無く果てしもないものは、人の目には見えません。天主が目に見えないのは、限りなく果てしない力の持ち主であるからなのです。」(長部日出雄『まだ見ぬ故郷・高山右近の生涯』より)
21世紀になる前には、新世紀になったらきっと身の回りのどこにも進んだ科学技術があふれると期待していました。事実、そうなりました。電話が各家庭に引かれ、テレビやクーラー、冷蔵庫や洗濯機が普及、コンピューターが発達し、外国も近いです。身の回りは便利さに満ち、生活は格段に向上しました。
ところが、あなたは幸せですかと聞かれると、現状に満足していない人が決して少なくありません。便利さはそれを使う人間が自分に取り込む努力をしていかないと、どんどん先へ先へと勝手に行ってしまいます。今の幸せは、手に入れると同時に使用期限切れが迫っているよ、という警告と抱き合わせみたいです。丁度あのメーテルリンクの「青い鳥」の話しのように、便利でうれしいものも次々と色あせ、輝きを失っていきます。
両手でつかんたこの幸せは、確かなものではないのだろうか? ちがう、ちがう。私が心底から求めているのは、便利であっても取っ替え引っ替え目まぐるしくすたれていくようなものではない。揺れ動く暮らしの中にあるからこそ、変わることなく私は愛されて生きていくことが出来る、そんな手がかりです。
このように求める私たちは、あの戦国時代に生き、目に見えるはかないものに翻弄されていた人々と、どこか似ています。目に見えない真実に渇望し、求道する私が、ここにいるのです。
神様、私が見えるもの、手に触れるものは、私の心を永遠に安らかにしません。限りある私をはるかに越えて大きなあなたに、私はどうして寄り添うことが出来ますか?
聖書の言葉が、そんな私の耳に響きます。
いのちのことばが、ここにある。目に見えない神様と共に始めからあって、しかも、今、キリストと共に現れた。どんな被造物にも優る輝きがあって、あなたと永遠にある。
この命の言葉は、救い主のこと、創造主の御子キリストです。見えないものがキリストによって見え、信じる私たちと共にあります。永遠から永遠へ、私たちを愛して下さるお方の愛です。