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みことばの贈り物

茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊

みことばの贈り物(7)2008年2月

皆さま、お変わり無くいらっしゃいますか?寒い二月は小の月、でも今年は29日までありますね。オリンピックもあります。小さなことから大きなことが期待できます。神様の恵みを知る手がかりを大切にし、祝福と平安が皆さまと共にありますように!

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも、着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなた方にはなおさらのことではないか…。

(マタイによる福音書6章28〜30節)

 星野富弘さんとその詩画は、星野さんがクリスチャンであることを知っている人にも知らない人にも、大きな感銘を与えます。憧れの体育の先生として歩み出したその矢先に、生徒たちの 前で模範演技を見せた鉄棒から落ちて、手足が動けなくなる体になりました。まったく希望のない入院生活を続ける中で、復活の主イエス・キリストの信仰を持ちます。その生活から生み出されていく詩画です。深い情感と信仰が慰めと希望に満ちています。私の好きな詩があります。花忍という題。

あなたに逢ってから、
私は道の真ん中を歩かなくなった
真ん中はあなた 私は少し横を歩きます。

 田舎のあぜ道みたいな小道ですね。舗装なんかしてありません。その真ん中に、ひざ近くまで真っ直ぐ伸びた忍という草が立っている。そこを歩いて通うのですが、わざと踏んづけて行くのです、この草花のことを。熱い日射しを受けながら、まるで無いもののように踏んづけていく。そんな人だったのですが、変わりました。

 この詩が感銘深く読まれるのは、道のどこを歩くかということだけ言っているのではない、からです。道は、人生です。少し横を歩くのは、人生の中心に有るべきものを見たからです。今までは「おれ様」でした。それが、「あなた」に逢ってから、「あなた」が私の人生の中心になりました、というのです。

 では、この「あなた」とは何を指すのでしょう?

 忍の草でしょうか?そう読めます。たしかに、星野さんは道の真ん中にけなげに咲くこの草に気付いて、大切に思い、道を譲るようにして歩くのですから。

 それだけでしょうか?

 星野さんにとって、自分の人生の真ん中にでんと居座っているのが、事故・障害・不自由でした。星野さんは、何度、どれだけ、それを忌々しく、憎々しく思ったことでしょう。それを認めたくない、それにしてやられたくない、おれ様の人生がそれで邪魔されたなどと決して思いたくないから、踏んづけるのです。

 でも、その苦しい経験を受け入れていこう、と思ったんですね。そうしたら、自分の人生に邪魔だと思っていた辛さや憎しみが、「おれ様」の虚勢やひとりよがりそのものと同じだと、分かってきたのです。健康であろうと無かろうと、自分の思い通りになることばかり求めている限り、自分で自分の前に邪魔ものを置いているのです。自分で自分を躓きに導いているのです。

 しかし、この花忍をそんな醜い目でみてはいけない。この花は、決して自分を憎んでなんかいない。自分を躓かせない。人生で遭遇する不自由も同じではないか。どんな苦しさも踏みつけるためにはなく、そこに神様が共にいて下さることを示していないか。

 そう思う星野さんの心は、野の花を愛して着飾って下さる神様を知ったのです。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか(30節)。」星野さんは神様を「あなた」と言い、自分の人生の中心を神様に据えるクリスチャンになりました。神さまに寄り添って歩むことを、自分の悔いのない生き方としたのです。

 まだ土の下の種も、じき芽を出します。今から私たちも信仰の芽が出、育つことを信じて、神様を中心に歩んでいきましょう。

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