茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊
みことばの贈り物(9)2008年4月
皆さま、春です。年度の変わり目と教会のイースター(3/23)が重なりました。イエス様のご復活を喜ぶイースターは、春の訪れなのです。新しい春。何かを新しく始めてみたらどうでしょう?私は、未知のスペイン語に挑戦してみようとしています。
神のなされることは、皆その時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠を思う思いを授けられた。
それでもなお、人は神のなされるわざを初めから
終わりまで見きわめることはできない。
(旧約・「コヘレトの言葉」3章11節、口語訳)
コヘレトとは個人名ではなく、招く人のこと。旧約聖書の一書で、この人が人生についての賢い教えを語っています。
上に引用したのは、1955年に以前の文語訳から改められた口語訳です。この訳に慣れ親しんだ方も少なくないでしょう。
今現在は、1987年に口語訳から変わった新共同訳ですが、同じ箇所がこう訳されています:
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは、許されていない。
ちなみに、手元にある英語の聖書では、こうです:
He has set the right time for eveything.He has given us a desire to know the future, but never gives us the satisfaction of fully understanding what he does.
(神様は何事にもふさわしく、時を定めておられます。私たちがこれからのことを知りたくなるのも神様のお導き。とは言っても、神様がなさることなので、私たちにはどうしたってすっきりとは明らかにならないのです。)
そのときには分かっていなかったけれども、後になってみると、あのとき既に神様は私に関わっておられた。こんな気付きです。
イエス様は受難の前、ろばの子に乗ってエルサレムの町に入られましたが、そのとき「ホサナ!」と人々の歓呼の声に迎えられました。その姿は王の入城を表す預言(ゼカリヤ書9:9)の実現だったと、弟子たちは後で気付くのでした(ヨハネ12:16)。これは一例。その「後で」というのは、復活の主に会ってからです。
私たちは、日常の生活の中で見聞きし、体験している事の中に、実は神様や永遠を思うきっかけを与えられていながら、そうとは理解していないことが大いのです。それは偶然でも常識によるのでもなく、「後になってみると分かる」のですが、既に神様の大きな愛の中にいたのです。そう分かるのは、信仰です。
乳ガンに向き合った或る方の話を知りました。結婚式を挙げた二週間後に発症を知らされ、未知の世界に恐れつつ、二度大きな手術を経、再発。真の病いとの格闘は、病院では行えず、自宅で過ごす決断から始まります。やがて、彼女は気付きます。「病いを敵とせず、病いを自分の一部とみなして受け入れよう。」すると、病いが騒がなくなりました。「自分の中から病いは生れ出た。だから、大事なことは病いを憎むのではなく、病いにうろたえる自分と闘うこと。病いは自分を取り戻させてくれた。病いを感謝しよう。」こんなにも彼女自身が変えられていったのです。
ご夫妻はクリスチャンではありませんでしたが、共にキリスト教の学校で学びました。身に着けたものがあったのですね。医師の治療だけでなく、自分のいのちに限りがあるとは知りながらもいのちを大切にする気付きから、生きることの執着ではなく、生かされることの感謝に至り、いのちを大切に思わせてくれる病いを大胆に認め、受け入れていくことになりました。この心の変化に、感動しました。彼らの中に神様は共にいて下さいましたね。
キリストに生かされる人のさわやかさです。「ありがとう」と後からでも感謝できる人生は、まことに美しいです。
今すべて分からなくても、神様は気付かせ、招いておられます。