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みことばの贈り物

茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊

みことばの贈り物(11)2008年6月

間もなく梅雨になりそうな気配ですが、お変わりありませんか?道ばたにあじさいの花が咲き、かたつむりが葉っぱに乗っていて、かさを差した小学生が長靴を履いて、水たまりをジャブジャブ。…谷内六郎さんの絵で見たような気がします。

イエスは…「何が見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。

(新約・マルコによる福音書8章23〜25節)

 この目の見えなかった人は、生まれつき見えなかったのではなくて、いつか失明した人なのかもしれません。イエス様によって少しずつ目が見えるようになっていくのですけれど、「木のような姿がぼおーっと見えるのは、動いているのだから木ではなくて、あれは人だ」と言っているので、木も人も具体的に見た記憶があるのでは、と思えます。

 はっきりとは見えませんが、この人はまず人の姿を認めたのでした。木のようだけれども歩いている。それが、人なのですね。歩いているとか、動いているとか、しゃべっているとか、何かを作り出そうとしたり、喜んでいるとか。じっとしているだけではなく、人は必ずその人らしい仕草や生きている証があるものです。

 私はおっちょこちょいな方なので、とある集まりのとき大食堂のようなところで、入口から入って来た人を見て「あっあの人だ」と思って、大げさに手を振って挨拶をしました。

 しかし、真実は「あまりよく知らない別の人」だったのです。その方から「申し訳ないけれど、どこかでご一緒でしたか?」と尋ねられ、引っ込みがつかず、「…の時おられましたよねぇ?」と苦しい会話になり、いろいろ話してようやく共通の知人の名が出てきてほっと一息。苦い思い出です。今思っても、冷や汗が出ます。一番いけなかったのは、「人違いで、ご御免なさい」と素直に謝れず、心が固くなったことでした。

 ですから、目の不自由さがない私でしたが、このときじつは人も見えず、自分も見えず、何も見えていなかったのです。

 逆に、この目の見えなかった人は、自分が持つ最良の知識・思い出・経験はごくごくわずかなものだったでしょうが、イエス様と出会った喜びによって、それまでの限界を大きく超える新しい世界に広がって行ったのです。それは、はじめ「木のようですが、人なのですね?」と覚束なさをさらけ出してイエス様に聞いたところ、イエス様が一層はっきりと見えるようにと、弱い目に両手を当てて下さったからです。

 これは、病気の癒しという次元を超えて語られる大変な教訓ではないか、と思えるのですが、どう思われますか?

 「見える」ということは肉眼で分かる以上に、自分の狭い了見に留まることなく、もっと広い視野と愛を与えられることではないでしょうか。それを可能にするのは、見ているようで見えていない私自身ではなく、その私に寄り添って弱いところを手当して下さるイエス様の愛なのです。

 「何が見えるか」と呼びかけられて、見るべきものが見えていないと気づかせられます。同時に、そう呼びかける方に心を開くことによって、私の心が広くなります。心が豊かになるのですね。世界遺産の白神山地を訪れたとき、エッセイストで全盲の三宮麻由子さんが言われていたように、巨木に聴診器をあてました。木が聞いているように音を聞きました。意外にたくさんの音が、はっきりと聞こえ、聞きながら分かる世界の奥深さを想いました。聞くことで見えてくる、豊かな世界に引き込まれる経験でした。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない」(『星の王子さま』)と王子さまに砂漠のキツネが言ったように、「見える」とは心で見ること。そのためにイエス様との出会いが大事なのですね。

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