茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊
みことばの贈り物(13)2008年8月
とても暑い日が続きます。どうぞ、ご自愛下さい。そして、皆さまのご健康が支えられ、日々の歩みが守られますようにお祈りしています。私は自転車に乗って日焼けし、腕(表のみ)が真っ赤になりました。盛岡でのバーベキュー以来です(あのとき、眉毛もチリチリに焼いてしまいました)。
(イエスは)シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませて下さい」と言われた。…イエスは言われた、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った、「その水を下さい。」
(新約・ヨハネによる福音書4章より)
イエス様も疲れて暑くて、のどが渇いたのですね。座り込んでしまったとは。よほど暑い日だったのでしょう。一歩も歩けなくなったようです。このとき弟子たちは、食べ物を買いに町へ出かけて行っていたそうです。
さらに不便なことに、井戸で水を汲もうにも、「おけ」の持ち合わせがありませんでした(昔の井戸です、自分で汲む器を持ってこなくては!)。目の前に水があるのに、手も足も出ないとは、辛いですよね。(話は脱線しますが、遠路はるばる知人を訪ねたマンションが最新式のオートロック式の玄関でした。あいにく部屋番号も電話番号も控えて無く、部屋は上に見えるのに困りました。たまたま入っていく住人の方がいたので、しめたっと、事情を話して、不審者ではないと納得していただき、一緒に入れてもらいました。)今日みたいな暑い日には、この感じが分かります。
そこに、女の人が一人、水を汲みにやって来ました。「しめたっ!」と私なら思うところです。イエス様も「水を飲ませて下さい」とお願いしています。ところが、イエス様はこの人について色々思い巡らすのです。普通、水汲みは一日の内でもまだ涼しい朝早くに行ないます。こんなに太陽がギラギラと頭の上で照っている正午には、家の外を出歩きません。それでなくても水汲みは重労働です。この女の人がこのとき井戸にやって来たのは、人に会うのを避けるためです(井戸は出会いの場。井戸端会議とはよく言ったものです)。そうせざるを得ない事情があったのです。
さらに、この人はサマリア人。ユダヤ人とは犬猿の仲でした。助け合いはおろか、口も聞かない間柄で有名です。よりによって嫌な人がいる、と思ったことでしょう。「無視するに限るわ。」
すべて、イエス様にはお見通しです。彼女の予期に反する呼びかけで、彼女はびっくり。「水を飲ませて欲しいって、この私に?」さらに、事態は意表を突く展開です。彼女がなぜ人を避けるのかまで、イエス様は言い当てるのですから。
そして、この二人のやりとりのクライマックスは、いつの間にか暑さも忘れたように、お互いの位置が逆転することです。始めは水を求めたのはイエス様でしたが、この女の人が求める人になり、イエス様から水をいただこうとするのです。
でも、イエス様は水を汲む器を持っていなかったのでは?
そうです。しかし、イエス様が下さる水は、のどの渇きを一時的に癒す水ではなく、人生の空しさや心の餓え渇きを癒す「命の泉の水」なのです。ある英語の讃美歌を日本語で歌おうと訳した歌詞がこうでした:
「谷川の流れを慕う鹿のように 私はあなたを慕い求める。
涙流しうなだれる我がたましい いのちの主の御顔仰いで祈れ
主は昼慈しみで、夜には歌で 渇いたたましいうるおされる
あなたこそわが盾、あなたこそわが力
主よあなたこそ わが命の泉」
(旧約・詩編42編より)
この女の人は、人に言えず、自分で押し殺していたありのままの自分を、何の分け隔てもなく声をかけて下さったイエス様に打ち明けることが出来ました。そうすることで、「まことの命の泉」が新しい自分を生かす力だと、心から気づいたのです。彼女の「命の泉」はイエス様自身なのでした。
今日の暑さはいつまでも続きません。しかし、心の餓え渇きが止まないとしたら?イエス様の御言葉に耳傾けるとき、心が満たされていきます。