茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊
みことばの贈り物(20)2009年3月
イエス様の受難を思う季節になりました。4月12日(日)が復活祭です。
ところで、質問は事前に分かっていても質疑がちぐはぐになる国会。出がけに「アレをついでに買って来て」と言われて、別のものを買って帰りもめるのが、わが家。ちぐはぐなコミュニケーションがあちこちに。
そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った、「真理とは何か。」
(新約・ヨハネによる福音書18章37〜38節)
ピラトとは支配者であるローマ皇帝から遣わされた総督です。ここはイエス様を裁判する場面です。争点は、被告イエス様が皇帝に背いたかどうかです:「あなたは(皇帝に逆らう)王なのか?」
ピラトが最大の関心を払うのは、皇帝に対する反逆者を断つことです。そのような摘発を行なえば、忠臣として彼の評価は上がります。一方で、法治国家ローマ帝国の高級役人であるピラトは、無実の人に罪を押しつけるような暗黒裁判を良しとしません。イエス様とのやりとりからは、ピラトはどうしても有罪を確信できません。イエス様に謀反のにおいは感じられないからです。
そこで、この後、ユダヤ人たちに言いました:「この人は無罪だろう。」
聖書をていねいに読むと、明らかな「悪人」はあまりいないように思えます。意外な気がします。聖書は「正義の神が大活躍して悪魔や悪人が徹底的に退治される」書物かと思ったら、そう単純ではないのです。
このピラトは悪人ではなかったのです。
ただ、イエス様とのやりとりの中で、話題が「真理」に移ったとき、ピラトにこの話題は荷が重かった。だから、「そんな難しいことを話題にする人物が、皇帝を敵に回して物騒な事件を起こす政治犯ではあり得ない」と、この能吏は議論の深入りを避け、無罪を直感的に思ったのです。
ピラトは仕事の出来る人物ですが、真理や人生について日頃から考えたり深い関心を払ったりせずに毎日を忙しく過ごす、普通の社会人だったのです。同じような例は私たちのまわりにいくらでもあるでしょうし、私自身もそんな一人です。朝、新聞を開き、テレビのニュースを見て、世の中の動きを理解しますが、「真理とは何か」を日課として議論したり、思索を極めようと特別な修養に励むわけではありません。
悪人ではないと思っていますが、思わぬ重荷があると弱くなります。
事実、ピラトはこの後でイエス様に死刑を言い渡してしまうのです。賢い判断力と統治能力を持つ一方、弱点があったのです。それはイエス様を死に追いやろうとする人々の「叫び」に抗しきれなかったことです。自分の頭では無罪と分かっていたのに、叫びに圧倒されて心が縮み上がってしまったのです。イエス様を避けた心が露わにしたちぐはぐさです。
パウロは、後にこう言っています。この時のピラトの心境にそっくりです:「私は自分の望む善は行なわず、望まない悪を行なっている」(新約・ローマの信徒への手紙7章19節)。これこそ、人間のちぐはぐさです。
このちぐはぐさが、どれほど人間を歪ませ、悩ませているでしょうか。真理に心を開かないと、このちぐはぐさに人間は負けます。しかし、真理は空を掴むような抽象的なものではなく、イエス様こそ真理です。 イエス様はご自分の臨む善、つまり人間を救う道に歩まれ、望まない善、つまり人々のちぐはぐをすべて引き取って清算して下さったのです。真理とは何かではなく、どこにあるかを求めましょう。真理は、ちぐはぐな私たちを愛して正して下さるイエス様に、そんな私たちと正しくコミュニケーションして下さるイエス様に、あるのです。悪人ではないけれど悩みの絶えない人生が、イエス様につながって平らかにされます。
受難節に入りました。あなたとイエス様を結ぶ聖書を読みましょう。