現在位置:

みことばの贈り物

茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊

みことばの贈り物(21)2009年4月

「年度末は忙しい」と言われます。少し前には「大変!もう12月だ、あぁ忙しい」と言いました。2月は短くて「忙しい」。4月は「年度始めで忙しい」、5月は「連休明けで忙しい」、6月は「梅雨で忙しい」…。忙(しい)の字は「心(忄)が亡くなる」こと。それでは、困ります。

ちょうどこの日、二人の弟子がエルサレムから六十スタディオン(注約11キロメートル)離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら今やり取りしているその話は、何のことですか」と、言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
(新約・ルカによる福音書24章13〜17節)

 この二人の旅人も忙しかったのです。いつの間にか一緒に歩いて来られたイエス様が、分からなかったくらいなのですから。

 歩くのに忙しかった、のではありません。

 話し合い論じ合うのに忙しかったのです。

 その分、心は空っぽでした。いえ、たしかに心の中は悲しみや落胆、幻滅や空しさでいっぱいでした。しかし、妙な言い方かも知れませんが、いくらそのようなものをいっぱい詰めるのに忙しくしていても、空っぽは埋められていないのでした。

 本当に大切な心のよりどころが、なくなっていたからです。そんな状態で、見るべきものが見えていません。「目がさえぎられていた」と記され、「顔が暗い」と言われているのは、見るべきものが見えていない人の姿のことだ、とハッと気づかさせられる言い方です。

 心が別の何かに捕らわれていたら「こころここにあらず」状態です。太陽のように明るい光を与えるものに向き合ったらその輝きを写し出せますが、そうではないから「暗い顔」になります。

 この二人の旅人は、イエス様の死について言葉数多く語り合いながら、心の中にイエス様をお迎えしていませんでした。イエス様の死があまりにも大きな驚きであり、落胆であり、悲しみだったので、心の扉が閉ざされてしまって、一緒に歩いて下さる方が分からなかったのです。

 愛する人を失ったら、私たちもやっぱりそうですね。この旅人たちの姿は、決して特異なものではないのです。

 この後、旅人たちは寄り添って歩いて行かれるイエス様(「何も知らない人らしい!」)に、ことの次第を克明に話して聞かせてあげます。そうしたら、イエス様が聞いて下さり、語り出して下さったのです。

 どうも、この場面は「悲しむ者が癒されていくプロセス」のようです。イエス様は旅人(=元イエス様の弟子)の悲しみを受け入れ、慰めて下さいました。ちょうど、かつてイエス様ご自身が教えられたように:「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」
(マタイ福音書5章4節)

 なぜ悲しむ人が幸いなのでしょうか? 慰められるからです。

 誰から? イエス様から。

 そのイエス様が、「十字架の死」と「復活」を経て、悲しむ人に、再び出会って下さるのです。実際、イエス様から語りかけられたとき旅人たちは「心が燃えたではなかったか」と、後で思い返して言っています。

 このイースター(復活祭)に、イエス様を心に迎え、慰められ、拠り所を得(コリント一15章1節)、輝きを与えられる人になりましょう。 谷川俊太郎さんの詩に
 「かわいらしい郊外電車の沿線では 春以外は立ち入り禁止」

という言葉があります。私たちの心を温かくするのは、復活のイエス様の平安と喜びです。それ以外はなにものも、立ち入り禁止!

このページの先頭へ