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みことばの贈り物

茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊

みことばの贈り物(25)2009年8月

暑中お見舞いの時期です。皆様お変わりありませんか。夏の暑さがつのる時期です。どうぞ、ご自愛下さい。大雨や災害に遭われた方々を思うと、少しでも早い復旧をと願います。どなたにも神様の平安と祝福がありますように、心からお祈りします。

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気がつかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
(新約・マタイによる福音書7章3〜4節)

 目にゴミが入ることは、時々あります。でも、まさか“おが屑”は入らないでしょう。ましてや、丸太なんて!イエス様は随分オーバーに言っているみたいです。でも、おが屑とか丸太と言ったイエス様は、元大工さんだったのです。なるほど、それならばこれは「たとえ」として、納得できますね。

 これが宇宙飛行士の若田さんや野口さんなら、さしずめ、「人工衛星」、「宇宙の隕石」でしょうか?そう言えば、先月には、皆既日食がありましたね。月と太陽のあのような宇宙の壮大なドラマを、ちっぽけな人間の目はとらえ、しっかり見て楽しみます。やっぱり、イエス様が言われたことは、オーバーではなかったのです!

 ところで、イエス様はこのたとえで何を言いたかったのでしょう? 「自分にこそ他の人よりもっと大きなものがあるのに、気がつかないの?」ということです。他人のことであれば、いろいろと細なことでも気になってあげつらう人間が、自分のことになるとはるかに大きな問題があっても気にしないのです。ちぐはぐ、です。そう、イエス様は指摘しているわけです。「他人に厳しく、自分に甘い」姿です。いいことを教えていても、その人のやっていることを見たら、お手本にできないとは。これは特定の人についてだけでのことではありません。「自分さえよければ」とか「人より自分の方がまし」などと自己中心に考えていると、だれでもそうなるのです。自分のことばかり大事にする人は、昔も今もこんなにちぐはぐです。

 イエス様の時代に、戒律や伝統に厳格で熱心だったユダヤ人は、「ファリサイ派」と呼ばれていました。彼らは、律法をきちんと守らない(守れない)人々を見下し、自分たちこそ優れていて、神様に愛される資格があると、自負していました。そんな彼らにイエス様は、「神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」(マタイ5:45)と言われました。自分の基準で人を裁く彼らこそ、「律法に忠実」と言いながら律法のこころを失っている、と指摘されました。別の所で、「彼らは、人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとはしない」とも言われています(ルカ11:46)。図星でした。そう言われた人々は、イエス様を憎みました。言葉尻を捕らえて、攻撃しました。やはり、自分のことだけが大事だったのです。

 人を押しのけて守ろうとする自分とは、いったい何なのでしょう?

 今日の聖句には、考えさせられます。当たっています。でも、憤るのではなく、謙虚にされ、その指摘を受け入れ、行き方を改める人は、爽やかで、素敵です。魅力的で、目が輝いています。聖書に「目からうろこが落ちる」とあります(使徒9:18)。おが屑であれ丸太であれ、うろこであれ、自己中心が取りのけられた人は心が広く、穏やかです。

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