茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊
みことばの贈り物(26)2009年9月
波の音が入ったCDがあります。どこかの海辺で録音した波の音が、音楽と共に、或いは、曲の合間に流れます。夏の終わりのようでもあり、落ち着いた秋の海かもしれません。本当はいつの海なのでしょう?
シモン・ペトロが、「私は漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べ物があるか」と言われると、彼らは「ありません」と答えた。イエスは言われた、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。そこで網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることが出来なかった。
(ヨハネによる福音書21章4〜6節)
イエス様に、岸辺にたたずんで波の音を静かに聞き入るような機会は、無かったみたいです。少なくとも、聖書が描いているのは、海でも湖でもイエス様は現れるところで人間の困難や問題と向き合われる姿です。人々との出会いがあり、イエス様は言葉をおかけになります。人々も、波の音ではなくイエス様の言葉を聞いて、安心を与えられています。
作曲家の三枝成彰さんがこう語っています:私たちの多くはクラシック音楽を聴くときストレートに癒されたいと期待します。しかし、作曲家たちはあるメッセージを「音楽」として表現したのです。そのメッセージを聴き取り、今日も意味あるものにする作業が音楽鑑賞なのです、と。音楽愛好家はもっと作曲家の人生や音楽の背景を知ることで、鑑賞が楽しく豊かになるのですよ。
聖書に親しむ際にも、似たようなことが言えるかもしれません。「聖書=宗教書=御利益をもたらし、処世訓として生き方を示す実用的な金言」としたら、聖書は干物のようになってしまい、輝きを失ってしまうでしょう。聖書の持つメッセージを読みとりたいものです。
冒頭の聖書で、イエス様が「すでに夜が明けたころ、岸に立っておられた」とあるのは、鴨居の上で額縁に飾られた絵姿ではありません。その水辺は、まさに今を生きる私たちそれぞれの生の現実にほかなりません。知識や教養で見る世界、感傷に浸る光景の中に、イエス様がおられるのではないのです。難題や課題の波が寄せ来る私たちに向き合って、イエス様は立っておられ、迎えて下さり、呼びかけ、答えて下さるのです。そこで明らかにされるのは、イエス様と「私」とのダイナミックなコミュニケーションです、相互関係、愛です。
イエス様の弟子たちは、再び舟に乗って漁に出ていました。彼らが師と仰いだイエス様は、十字架で殺されてしまったからです。弟子たちは故郷に戻って、また元の漁師になりました。そんな彼らの現実は「不漁」でした。人生になんの実りも無く、また夜が明けました。
その彼らの一部始終を岸で見守り、声をかけ、受け入れたのは、思いがけずイエス様でした。復活の主です。イエス様は人間のねたみや自己中心、プライドや傲慢を一身に負って、死に従いました。しかし、父なる神様は、それらの一切を御子イエス様と共に死なせ、御子を復活させ、今、弟子たちの前に立たせました。この水辺は、弟子たちには失望・落胆・徒労・虚無の最前線です。その同じ水辺に復活の主イエス様が立って下さり、勝利・希望・愛・感謝の世界に変わるのです。
聖書を読み、こうした豊かな救いのメッセージを受け止めたいです。