現在位置:

みことばの贈り物

茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊

みことばの贈り物(30)2010年1月

 2010年となりました。明けましておめでとうございます。神様の祝福が、皆さまと共にゆたかにありますように!
 新年になったらテレビのニュースで、子どもたちが「今年の抱負」を語っていました。サッカーで頑張りたい、とか、書道が上手くなりたい、新しいゲームにたくさん挑戦したいなど、抱負を語っています。子どらしくていいと思います。大人は?と問われて、「大人はいいよ」ではさびしいですね。皆さんは、どんな抱負をお持ちですか。

 …すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。
私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛された。
(新約・ルカによる福音書2章49〜52節)

 大人には仕事も責任もありますし、今日に至るまでの色々な経緯があります。今から何か新しいことを始めるのはおっくう、と思われるかも知れません。簡単には言えないし、考えられない。こうなると、かえって子供は自由で、素直で、積極的な気持ちが表れていそうです。本質もついているかも知れません。

 イエス様は、エルサレムの神殿で行われる年に一度の大きなお祭りに向けて、両親始めナザレ村の人々と一緒に、巡礼の旅へ出ました。全国、外国からも人々が来るので、神殿は群衆でごった返しました。帰途、人混みの中で家族がバラバラになってしまうのですが、もう帰るだけですし、行き間違うはずもありません。このときのイエス様は12歳でした。当時のことです。あまり心配していませんでした。ところが、父ヨセフと母マリアは途中で一行の中に子どものイエス様がいないのに気づきました。道をとって返して、途中ではぐれていないか探してまわりました。

 結局、エルサレムまで戻ってきてしまいました。どこにも迷子になっていなかったのです。それで神殿の中を見回すと、少年が偉い祭司や律法学者たちと真剣に議論しているのです。それがイエス様でした。両親は我が子の見つかって安心し喜んだ一方で、親の心配をよそに大それた事をしているイエス様を、思わず叱ってしまいました。

 そして続く場面が上に引用した今月の聖書です。
 イエス様は、「神殿にいるからってそんなにびっくりしないでよ。怒られるほどのことじゃあないよ」と言っているようです。たしかに、「その意味が分からなかった」というヨセフやマリアの気持ちも分かります。

 聖書は、言葉の上での意味だけではよく分からないことがあります。「自分の父の家」とは「神殿」のことで、「そこにいる」とは居場所というより「神様に仕える仕事であり生き方」を意味しているのです。それにしても、「神殿」の主である神様を「自分の父」と言ったのは、まさに救い主として神様から世に遣わされたお方の深い自己認識でした。

 いずれにしても、ここに少年イエス様の「抱負」が表れています。 「抱負」というには少し話が大きいと思うかも知れません。辞書に「抱負」とは、「自信を持って心の中に抱いている考えや計画」とあります。一般的な希望とか夢より話が大きいみたいです。普段私たちは、それよりもう少し小さな抱負を語っているような気がします。

 「生涯の最後まで神様を大事にし、神様に愛されるように、そして、人にも愛されるように生きていきたい。」ーこんな大きな、そして意味ある抱負をこそ、生涯かけてぜひ持ってみようではありませんか。

このページの先頭へ