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みことばの贈り物

茅ヶ崎恵泉教会牧師 坐間 豊

みことばの贈り物(47)2011年6月

 今年は季節の移り変わりがあいまいです。4月になったら冬に逆戻り、5月に台風が来、衣替えの日が異常に寒かったです。大震災の地では多くの方々が時間が止まったように思われているのではないでしょうか。早く復旧の手が進み、日々の暮らしが戻りますように、と心からお祈りしています。何よりも忘れないこと ー 教会では少しずつ少しずつ、支援の募金を毎週続けています。

天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく、声は聞こえないのに、
その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。
(旧約・詩編19編2~5節)

 私たちの目の前に広がるこの自然は、何かを物語っている。そう人々は昔から考えてきました。あるいは、あまりの壮大さ、悠久さ、厳粛さを前にして、人間の小ささを実感してきた、ということであるかも知れません。

 そうした「人間を超えるものへの畏れ」を持つということについてなら、使徒パウロがアテネを訪れてたくさんの偶像があるのを見知ったとき、こう言っています:

 「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなた方が信仰のあつい方であることを、私は認めます。道を歩きながらあなた方が拝むいろ いろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇 さえ見つけたからです(使徒言行録17章22〜23節)。」

 ただ、これらの偶像は人間の手で作られたものなので、アテネの人たち自身、それらから何も聞くことが無かったのでした。

 ところで、旧約の詩人は、神様が造られた天を仰ぎ見ているのです(「初めに神は天地を創造された」創世記1章1節)。天は神様の手のわざによるものです。だから、聞くべきものを聞いています。それは「律法、定め、命令、戒め」と、この後で記されていますが、いずれも神様の言葉です。同時に、それは私たちに分かる言葉です。特定の言語とか音声、文字というよりも、メッセージというべきでしょう。神様は、私たちのために、私たちが分かるように、私たちの心を動かす言葉を送って下さるのです。詩人はそれをとらえております。

 現代の詩人がこんな詩を書いています(「信徒の友」6月号より):

 「神様、大きな地震もあなたの御計画でしょうか

 亡くなられた方の中にも熱心な信仰者がおられたはずです

 神様、あなたは災害を通して

 私たちに何を言わんとしておられるのですか

 あたり前に生活できる幸いですか

 感謝することの大切さですか

 神様、全ての友らをこれ以上の悲しみから救って下さい

 復興への道への灯りとなって下さい」

 詩人は、この大災害を通して、神様と語り合っています。すべてが分かっているわけではありません。納得を得られてもいません。自然の脅威に震えながら、しかし、呪うのでも恨むのでも憎むのでも背を向けるのでもなく、ひたすら神様を見上げています。祈っています。

 少しでも聞くべきものがあるなら、それは神様から来る、と詩人は知っているからです。たとえ、世間では聞くことが無いとしても、私はあなたに聞きます、という詩人の姿です。だから、信仰の詩です。しかも、とりなしの言葉があります。私は感動します。詩は終わっても、詩人の心は神様に開かれていきます。それでいいのです。

 神様、私たちが心を自分の小さな言葉で閉じるのではなく、あなたに向かって開かせてください。今日もあなたに聞こうとしますから。

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